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水前寺成趣園
水前寺成趣園は、寛永13年(1636)に細川家の初代熊本藩主忠利公が、この地に御茶屋(藩主の休憩・宿泊用の別荘)と豊前(大分県中津市)羅漢寺(らかんじ)の僧・玄宅のための寺を建てたことに始まります。
出水神社
旧細川家家臣たちが創建した藩主を祀る神社です。明治10年(1877年)の西南戦争で熊本の街は焼け野原となりました。
神水「長寿の水」
手水舎右手の水盤から湧き出ている水は阿蘇山系の伏流水で、自由に飲用できます。新鮮な湧水を美味しく飲んで健康になろうと、60年ほど前から地元の人々が毎日早朝からここに集まり水飲み会が催され、最近まで続いていました。
スイゼンジノリ育成地
スイゼンジノリはラン藻の仲間の単細胞生物で、平均水温18度位のきれいな湧水、水深50センチ以下、砂礫が多い水底、遅い流れ、といった極めて限られた環境下でしか育ちません。
長岡護全公銅像跡
最後の熊本藩主となった14代護久の次男で、明治37年(1904年)に日露戦争で初めて華族として戦死した長岡護全の銅像があった場所です。
稲荷神社
京都の伏見稲荷大社の分霊を祀る出水神社の末社で、出水神社食物の神様、産業の神様です。朱色の鳥居が並ぶ景色は人気の撮影スポットです。
富士の築山
成趣園の眺めを象徴する築山ですが、明治10年(1877年)の西南戦争では頂上が削られ、政府軍の砲台が築かれました。当時は周囲に遮るものがなく、水面から20mもの高さだったといいます。
熊本動物園の跡地
昭和4年(1929)に熊本で初めての動物園が成趣園の東に隣接して開園。西日本有数の規模で、市が公園として無料開放していた成趣園とともに人気を博しましたが、昭和44年(1969)に江津湖畔に移転。当時の正門の一部だけが梅園の片隅に残っています。
幽斎公と忠利公の銅像
幽斎公は天文3年(1534年)、室町幕府に仕える三渕家の父と、学問に秀でた清原家の母の間に京都で生まれました。のちに細川元常の養子となります。
武田流騎射流鏑馬
疾走する馬に乗りながら的を弓で射る流鏑馬は、平安時代には朝廷儀式、武家社会では武道の修練として盛んに行われていました。現在は神社の神事や祭礼として催されています。
細川流盆石の石庭
盆石は、黒漆塗りの盆上に自然石や白砂で自然の景観を表現する縮景芸術です。石を愛でる文化から発展して室町時代に形が整ったと考えられ、飾り物として茶会などに用いられました。
肥後六花
熊本は古くから園芸が盛んな地で、歴代藩主が保護奨励し、さまざまな名花が生まれました。後の時代にその代表的なものを「肥後六花」とし、栽培法や観賞法には厳格な作法があります。
水前寺菜の里帰り栽培
水前寺菜は、熱帯アジア原産のキク科の多年草で、葉裏の赤紫が特徴的です。18世紀ごろに中国から伝来しました。
能楽殿
能楽殿は、明治11年(1878年)に出水神社創建と同時に建てられましたが、昭和50年(1965年)に火災で焼失してしまい、現在の能楽殿は、熊本藩の家老であった旧八代城主松井家から移築されたものです。
古今伝授の間
元は京都の八条宮家に在った学問所で、慶長5年(1600年)、この建物で肥後細川家初代・幽斎公が後陽成天皇の弟宮の八条宮智仁親王に古今伝授を行ったことから、古今伝授の間と呼ばれています。
漱石句碑
成趣園内には、夏目漱石の句碑が3基設置されています。漱石は明治29年(1896)4月から4年3か月、第五高等学校(現熊本大学)の英語教師を務めていた間に900余りの俳句を詠み、友人の正岡子規に熱心に書き送っています。
参道商店街
黄金色の美しい南郷ひのきの大鳥居が目印の商店街です。懐かしい昭和の風情が漂うお店と新しい感覚のおしゃれなお店の両方が楽しめます。短い参道ですが、珍しいものやここにしかないものもたくさん。あなたはいくつ見つけられますか?
玄宅寺(旧水前寺)
玄宅寺は、初代藩主忠利公が建てた「水前寺」を継承する、曹洞宗のお寺です。忠利公は熊本入国の折に、崇敬する豊前耶馬渓(大分県中津市)の古刹・羅漢寺の住職・玄宅禅師を伴っていました。
後藤是山記念館
「生涯一記者」の誇りに生きた後藤是山の記念館。館内には与謝野鉄幹・晶子の色紙や短冊、堅山南風の絵手紙なども展示されています。
夏目漱石第三旧居
1896(明治29)年、熊本の第五高等学校(現・熊本大学)へ英語教師として赴任した夏目漱石。その4年3カ月の熊本生活の間、引っ越し好きの漱石が転居した回数は6回にわたります。
藻器堀川
川の両縁から阿蘇の伏流水が絶え間なく流れ込み、小魚や鯉、カメが優雅に泳ぎ、遡上する鮎や漁をするサギの姿も見られ、水前寺の豊かな湧水環境を象徴する川です。
烏渡橋堰切開記念碑・水神
かつては農業用水を引くための堰でしたが、用途が薄れ、流れをせき止めることが環境を損なうとして環境改善のために当時の住民たちの努力の経緯が刻まれています。
水前寺蝋締所跡
成趣園南側の公園一帯には、かつて細川家の製蝋所がありました。水前寺蝋締所跡は、享和3年(1803年)に10代斉茲公が、藩営のものとは別に細川家の家計収入の増加を目的として開設しました。
熊本洋学校教師ジェーンズ邸
明治4年(1871年)、教育の近代化を目指して創設された熊本学校の教師、米国人L.L.ジェーンズ一家の住まいとして建設されました。現存する県内最古の洋風建築です。
日赤発祥の地
戦いのまっ只中、敵味方の区別なく負傷者を救護する「博愛社」の設立を政府軍本営となっていたジェーンズ邸で直接請願書を渡すことで許可され、ジェーンズ邸が日赤発祥の地とされました。